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「余命51時間だけど質問あるかな?」

 
 
 
Gulfoss
オレゴン州の尊厳死法のおかげで、ようやく火曜日にガンとの闘いが終わります。準備のひとつとして鎮痛剤を切り、残っている限りの自尊心を取り戻そうと思っています。

自分が誰だったかというのは関係ありません。痛みが常にあり、疲弊しきった末に、ようやく一片の尊厳を許されました。質問したい人は何でも聞いてください。

コメント:

僕らにメッセージか教訓を残したいとすれば、それは何だろうか?

本人:

我々が持っている何であれ、人を傷つける価値はないということ。何もかも儚いものだということ。種族も性別も宗教も。

らばQ:大反響となったネットの投稿「余命51時間だけど質問あるかな?」

本人『最後の数時間は「生きる」んだ。これは僕にとっての旅行であり、新しい人々に会うのにもっとも近い方法だ。バカのように聞こえるかもだが、これが僕の世界ツアーなんだ。』コメント『君が世界に行けないので、世界のほうが君に来ることにしよう。』日本を含む世界各国から多くのコメントが寄せられています。リンク元のらばQで翻訳されているのでそちらもご参照ください。

世の中に100%ってなかなか無いけれど、誰にも明らかな、そして誰にも訪れる数少ない共通項「死」

それにも関わらず、特に我が国では数字の「4」さえ避けられるほど「死」がタブーとされ、そのことに関して考え、議論する機会が殆ど無い。昔は道端で野垂れ死にを横目に往来を行き来しただろうし、きっと第二次世界大戦中の日々は死を壮絶に感じずにはいられないものだっただろう。いまや僕らの生活の中で「死の儀式」は白い病院の建物の中で行われ、「食べる」行為は他の生命の死を前提としているにもかかわらず、実感を全く持たないまま毎日パッケージされた食材をスーパーで購入する。よく子供への教育の定番となっているセリフ「〇〇に申し訳ないから全部食べなさい」「残さず食べたら〇〇さん喜ぶよ♥」が象徴的だ。例えば自分がクマに絶命されたときに「どうせ食べられるなら美味しくいただいてください」とか思うだろうか?「一片たりとも食べるな!!!!! > <」となおも絶叫することもあるんじゃないかと思う。薄れ行く意識の中で、もしくは死後に何らかの意志があったとして。

元も子もないが、そんな前提すら片手間な幻想に覆われていることの不具合が必ずどこかで生まれているんじゃないだろうか。たとえば、「残虐なゲームや映画が悪影響」とかドヤ顔で言える人々のこととか。「死ぬ」を感じずに「生きる」ことをリスペクトすることは出来ない。「死」を覗き込む欲望は人間にとって食欲や性欲と同じように当たり前のように存在する欲望で、「生きる」という機能にとって不可欠なものだ。死を隔離しながら生を行えというのは、「空腹」を知らずに「食欲」を感じろと言っているかのように馬鹿馬鹿しい。死や死への恐怖心が人生にとってもっとも重要なファクターのうちの一つということに異論がある人はないだろうにもかかわらず、痛ましい事件・事故が起きる度に責任の所在ばかりを言及して、まず一番初めの「死」の議論をしようと手を挙げるメディアも公的機関もない。ゲームや映画を憂う前に、この「死」が欠落した現状を憂え、頭のいい政治家さんたち。と。そんな人に投票する有権者もだ。みんな全員死ぬんだぞ。わかってんのか?

こうした環境に加えて、補完的な機能を持っていたであろう宗教的なアプローチもなく、精神科に白い目を向ける多くの日本人にとって「死」の現実は視界にない。それに付随する家族の金銭的・肉体的負担に対しても社会全体として現実感が欠けているように感じる。リンク記事出てくる「本人」の世界には患者や家族に多くの負担をかけることへの選択肢として「尊厳死」が成立し、末期ガン患者に癌専門医に加えてメンタルケアの担当医がつくなど、心理面も配慮されている。日本の終末医療の現場も牧師や僧侶(僧医・臨床僧)が徐々に活動されてとはいえ、100%の日本人がいつか向きあう「死」への準備がまだ不十分なのが現状だ。いつ完了するのかわからないミッションではあるだろうけど。(ターミナル・ケアと横文字にする動機自体がおかしい。人間が生命体である以上「死」がその終末なのは全く普通のことで、むしろ「終末」への議論や啓蒙が医療・哲学・社会、すべてのジャンルで遅れまくっていることの象徴だ。)

それは誰にとっても数十年先とは限らない。明日起こることかも知れないんだ。

切符の買い方を知らずに、旅に出る?


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